『合理性を追い求めるor無駄を愛する』というものを見つけた。
どうやら2019年にAbemaTVで放映された番組のテーマのようです。
『どっちも大事なんだよなぁ』なんて甲乙つけがたいと思うテーマですよね。非常に良い議論になるものだと私は思います。
結論から書くと私は「無駄を愛する」の方がより正しい事だと思うので今回はなぜそう思うのかを書いて行こうと思います。
無駄と合理は相反する
別に前提でも何でも無いかもしれませんが、無駄と合理は相反します。
合理性を追い求めるor無駄を愛するという対決になっている以上、「どっちも正しいし、両方大事でしょ?」なんて回答はラーメンとカレーどっちが好きと聞かれて「両方」と答えるほど意味の無い事。
なぜ無駄と合理が相反するのかと言うと『合理的に考えたら無駄は排除すべきもの』だから。
合理的に考えたら無駄は全て排除すべき
合理的に考えたら無駄は全て排除すべきです。
- お金を貯めたいから、毎月支払っている無駄なお金をカット
- 痩せたいから、毎日食べているおやつをカット
- もっと働きたいから、だらだらしている時間をカット
一見当たり前ですが、どっちも大事と考えていると「えっこれカットするの?やだなぁ」なんて思うかもしれませんね。
しかし、合理的に考えたら無駄は全く持って意味を成しません。
それでも人は悩みます。愛すべき無駄をカットすることを。
「愛すべき無駄」と「愛されない無駄」
無駄だと分かっていながらも愛することを辞められないものってありますよね。
私は以前飼っていたベタ。私が生きる上では全くの無駄と言って良いでしょう。しかし、それでもなおまた飼いたいと思っている自分が居ます。
他にも
・毎月のサブスクサービス
・おいしいお菓子
・だらだらと過ごす時間
といった事は無駄と分かっていながらも愛することを辞められません。
しかし、一方で「愛されない無駄」が居る事も事実です。
・知らない間に入って使っていないサブスク
・大して美味しくないけど惰性で食べているお菓子
・とりあえずの暇つぶしでだらだら
・誰も喜ばない家事
こんな「愛されない無駄」はさっさと無くしてしまう事が良いでしょう。
無駄そのものを愛すのではなく、あくまで「愛すべき無駄」を愛することが重要であるという事。
そのため、今回の主題『合理性を追い求めるor無駄を愛する』を言い換えるなら
合理性を追い求め無駄を全て無くすor愛すべき無駄を無くさない
と言っても良いでしょう。
無駄を愛することの方が重要である理由
冒頭で紹介した通り、私は「無駄を愛する」の方がより正しい事だと思います。
それは以下のことから説明できます。
・合理は目的ありき
・無駄には見えない目的が存在する
・見えない目的は見える人と見えない人が存在する
・目的が見えない人基準で「愛すべき無駄」の削除は損失でしかない
・見えない人基準で考え、無駄を愛した方が良い
それぞれ解説していきます。
合理は目的ありき
目的が無いと合理は合理足りえません。
・お金を貯めたいから、無駄な支出をカットする
・ダイエットをしたいから、無駄な食事をカットする
・より活動的な時間を延ばしたいから、無駄な時間をカットする
いずれも目的があってこそ合理的に考えられるものです。
意味も無く無駄を排除するなんて事は決してありません。目的が無ければそもそも”無駄”という概念も生まれませんよね。
なんて思う方も居るかもしれませんね。
その場合は生きる事自体が目的と言って良いでしょう。
生きる事自体が目的であれば、死に繋がらない事はたとえ他人から無駄だと思える事であっても少なくとも無駄ではありません。
少し前に書いた”コスパを極めたら死ぬしかない”という極論も「より効率的に生きる」ことを目的にしたら生きる事自体が無駄になってしまった例なのかもしれませんね。
無駄の定義が論点か
愛すべき無駄と目的の関係性については2つの解釈ができます。
1つは「他者から見ると無駄に見えるが自分は目的がある」という無駄。
2つ目は「自分の隠れた目的がある」という無駄。
どちらであっても無駄と目的は切っては切れない関係にあるでしょう。
特に隠れた目的がある無駄は合理or無駄の論争を激化させる要因になっていると私は考えます。
隠れた目的のある無駄
無駄には自分自身ですら分かっていない目的があります。
たとえばそれは「ちょっとした幸せ」であったり「考える時間の削減」だったりと様々です。
そして、合理的に考える場合は目的が2つあっても構いません。
①貯金をしたい
②毎月のサブスクは楽しいから解約したくない
みたいに2つの目的が共存するパターンがある訳です。しかし、この②の目的が見えたり見えなかったりするからこそ話がややこしくなってしまいます。
①しか見えてない人と①と②の両方が見えている人、この二人の言い分は絶対に異なるからです。
<①しか見えてない人>
サブスクは解約すべきだ
<①と②の両方が見えている人>
サブスクは解約すべきでない
という具合。
ここで問題です。①と②の両方が見えている人は合理と無駄のどちらが優先されているのでしょうか?
結論はどっちとも言えるです。
①しか見えない人が無駄と判断したものを愛し辞めない選択をした
とも取れますし
合理的に考えて無駄ではないから辞めない選択をした
とも考える事ができます。
「合理による損失」と「無駄による損失」
では、ここで隠れた目的を見えない人基準で考えてみます。
この人が合理的に考え自分の愛すべき無駄を排除したとき、目的が達成されたと言えるでしょうか?
隠れた目的を達成できていない時点でしこりが残るでしょうし、この損失を取り返すのは容易ではありません。見えないのだから再度探す必要があります。
では逆に無駄を愛し排除しなかった場合、目的達成の影響はどうなるのかと言うと。
余程の事が無い限り達成の歩みが遅くなる程度です。
この2つの事から、「合理を優先したときの損失」と「無駄を優先したときの損失」は言うまでも無く合理を優先したときの損失が大きい事が分かります。
そのため、私は「無駄を愛する方が優先」というポジションを取りました。
もちろん目的が隠れている事を前提にしているため、「なぜこの無駄が好きなのだろうか」という疑問は常に持ち続けている必要がありますが。
無駄を愛するために合理的にならざるを得ない
ここで勘違いして欲しくないのは”無駄を愛するために合理的にならざるを得ない”という話。
全ての無駄を愛せるわけがありませんよね?
一般的には金銭的制約,時間的制約,肉体的制約などさまざまな制約が存在しています。
何が大事なのか(愛すべき無駄なのか)を見定め、合理的に考えるのが一番です。
しかし、自分の「愛すべき無駄」がなぜ好きなのかが分からない場合、無駄を愛してみた方が幸福になれるのではないのかと私は思います。
余談:余裕があれば合理も不要
番組内では古坂大魔王が『コスパと無駄は2:8くらいのバランスが良い』と発言していたようです。
私の体感では8:2くらいなのでは?と思います。
別に体感の話ですがここまで感覚が分かれるのは余裕の差もあるのかなと一考。
余裕(特に金銭的な余裕)があれば取れる無駄の範囲は広がります。
今回は以上です。
最後まで読んでくれてありがとうございました!